一月四日。
唐長では毎年、修学院工房にて初摺りをしています。
新たな年を迎えられたことに感謝し、これから始まる一年への期待も込めて、一人ひとりが、唐長文様・宝珠を丁寧に写しとり、唐紙を手摺りします。
初摺りをする宝珠の板木には、「正月四日 押初用」の文字が裏書きにあり、唐長の先祖代々がどの時代にも、一月四日に同じ想いで初摺りをしてきたことがわかります。
みなさま、ブログやFacebookにて話題に出てくる、KIRA KARACHOのアトリエについて、ご存知でしょうか?
「いったい、どんな場所なの?」
「実際、唐紙をオーダーするにはどうしたらいいの?」
などと、興味を持ってくださるお客様が多いため、みなさまのお声にお応えし、今回は唐紙師トトアキヒコ・千田愛子の制作現場であり、日々、お客様と唐長の唐紙とが出会い、幸せが生まれる “アトリエ KIRA KARACHO” をご紹介致します。
雲母唐長では、お客様よりオーダーを承る際、京都御所西に位置するKIRA KARACHOのアトリエまで、足をお運び頂いております。(お住まいが遠い場合には別対応もしております。)
まずは唐紙独特の美しい風合いや陰影を、お客様に肌で感じていただき、またお客様のお顔を見ながら、唐長の歴史や想いも交えて、どのようなご要望をお持ちなのか、それを受けてどのような唐紙にしていくのか、一緒にお話を進めていきます。
そうして唐紙を理解し愛してくださるお客様、お一人おひとりの為に、その後、丁寧に手仕事をするのです。
(※ 唐長の唐紙は見本帳やカタログ、卸販売などは一切しておりません。
近年、「からかみ」「京唐紙」などと称し、カタログや見本帳のサンプルなどからお好みを選び、販売されているのは、唐長の唐紙ではありませんので、どうぞ、ご注意くださいませ。)
今回、みなさまに “唐紙のオーダーはどのようなプロセスを踏むのか” をご紹介するにあたり、2015年1月に大阪・梅田に整体院を移転されるお客様にご協力頂き、オーダーの様子から唐紙が完成するまでを密着させていただきました。
11月まで大阪府豊中市で「バランス整体院」をされていた栗田先生と岡田様。
お二人とのご縁のはじまりは、トトさんがつくった唐長文様「 角つなぎ」のお名刺でした。
平安時代、中国から日本に渡ってきた唐紙。
当時は、歌や手紙など、文字を書く為の詠草料紙(えいそうりょうし)として用いられ、特権階級の人々だけが使うことのできた特別なものでした。
その後唐紙は、人々の生活や建築様式の変化に伴い、鎌倉・室町時代の頃より衝立・屏風・襖・壁紙などの室内装飾に用いられ、また、江戸時代に入ると一斉に普及。
武家・公家・茶人・商人・町人など…さまざまな人々が、それぞれの趣味趣向を反映した唐紙を暮らしに取り入れ、人々の生活を彩るようになり、同時に、唐紙を手がける職人も増えていきました。
そんな江戸時代初期、唐長(唐紙屋長右衛門)は寛永元年[1624年]に創業しました。
2014年12月4日、ココン烏丸 唐長 / KIRA KARACHO 四条烏丸店は10歳の誕生日を迎えました。
幾度と足をお運び頂きました京都のみなさまや、観光の際お立ちより頂きました全国、又は海外からのお客様 … ご縁がありました多くの方々に、改めまして心より感謝申し上げます。
唐長 / KIRA KARACHO 四条烏丸店の始まりは、今から20年前にさかのぼります。
当時、京都の北に位置する唐長修学院工房の傍らで、唐長11代目の長女・千田愛子が “より多くの方々に唐長の世界や唐紙の魅力を伝えたい” と願い始めた小さなカードショップ。
以来、多くのお客さまに愛して頂き、2004年、「ぜひ京都の中心部へ」との嬉しいお声掛けを頂戴し、ココン烏丸の一階に出店しました。
一方、ココン烏丸は元々、1938年(昭和13年)に建設された旧丸紅ビルであり、銀行や証券会社が連なるビジネス街の象徴的な存在でした。
激動の昭和の時代と共に、多くの方々に愛され、親しまれたその建物を、10年前、世界的に有名な建築家・隈研吾氏によってリノベーションされ、複合商業施設として誕生したのが「COCON KARASUMA」。
その名は、「古今東西」に賑わいを広げていくように願い名付けられたそうです。
京都東山・三十三間堂の東に位置する養源院。
こちらは、季節の移り変わりや京都観光を堪能したい方、また歴史的な唐紙を体感したい方に、是非おすすめしたい、とっておきのスポットです。
京都国立博物館や三十三間堂に面した人通りも多い七条通りを、「三十三間堂前」交差点より南へ下れば、雰囲気も一変。
趣ある、落ち着いた雰囲気の養源院の門が現れます。
門から中をのぞいてみると、今の季節には色鮮やかに紅葉した木々たちが、玄関まで続く石畳の登り坂と共に、わたしたちを出迎えてくれているようで、その美しい光景に、心が静かに高鳴るのを感じます。
養源院のはじまりは1594年(文禄三年)。
豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)が、父・浅井長政の供養のために秀吉に願い建てたものであり、「養源院」の名は、長政の法号よりきています。
しかし、その後一度焼失した養源院は、1621年(元和七年)、徳川家二代将軍・秀忠が、その夫人・崇源院(お江)の願いにより再建し、以来、徳川家歴代の将軍の位牌が祀られており、養源院本堂に着くと、迫力ある葵紋に迎えられるのです。